今年度の研究では、江戸時代文書調査により、筑紫筝音楽の成立過程について、以下のような新たな知見および問題が提起された。 宇多天皇寛平年間に、彦山に唐人が来て命婦石川色子に筝曲を伝授し、それを宇多天皇に授け奉り、以後、筝曲は宮中で伝承されたとする『河海抄』の記述を多くの書が採用しているが、筑紫筝側では、彦山の唐人筝曲は、宮中伝承とは別に、筑紫の民間にも伝わったとする書もある。また、江戸時代の彦山の寺伝にも、かつて唐人楽人がいたと云われていたようなので、奈良・平安時代の彦山は、筑紫文化圏の重要な拠点の一つだったのではないかと推測され、もしそれが事実なら、筑紫民間に筝曲が流れても不思議はない。しかし、それは少なくとも平安時代末ぐらいまでの可能性で、室町時代も継続して行われたとは考えにくいので、室町時代末の筑紫筝音楽の誕生には直接関係しないのではないかと考えられる。また、筑紫筝音楽の伝承曲の中に、雅楽「越天楽歌いもの筝曲」系統ではない、中国音楽系統と推測される曲があるが、賢順が明人音楽家と接触したとする記述があり、賢順は当時、南蛮貿易で隆盛していた大友宗麟に保護されていたことを考えあわせると、明の楽人が商客に混じって大友宗麟のもとに来た時に、賢順は接触したのではないかとの推測が可能となった。また、この中国音楽系曲については、従来は七絃琴曲の影響を考えていたが、賢順の師にあたる善導寺の僧が、室町時代末に唐人から明楽の瑟(筝と同類楽器)を学んだとする記述もあり、明楽の影響の可能性が出てきた。 なお、現伝承者、江戸時代に筑紫筝音楽を行っていた寺院や演奏者子孫等の所在確認調査に着手する時間的余裕がなかったため、今後の課題として追究する予定である。
|