鎌倉幕府草創期に下総の武士団千葉氏が九州に得た所領について再検討し、その分布と交通体系の関連からみても、平家滅亡後、鎮西守護人として九州各地に占領地軍政をしいた千葉常胤による謀反人跡没官の成果であることを想定した。 14世紀までの肥前千葉氏に関する文献史料収集整理の作業をすすめ、当該期における千葉氏一族の九州に於ける所領として、新たに筑前国宗像東郷曲村地頭職・公文職を検出した。また、従来鎌倉時代に肥前小城郡は千葉氏宗像が相伝したものと考えられてきたが、「岩蔵寺過去帳」の検討によって、時胤没後、一時その弟の次郎泰胤の手に帰し、その後時胤の子頼胤の手に戻されたことが想定された。さらに頼胤の子宗胤の没後、その後家「尼明恵(明意)」が地頭となり、子の胤貞が当地に定着するまで在地支配にあたった可能性も指摘できた。小城町の現地調査の成果としては、晴気城跡の山麓に位置する妙台山見明寺に千葉氏時代からの伝世品と思われる木造阿弥陀如来と元禄10年の什物帳が遺存することが確認できた。後者によって、牛頭城内の一郭に勧請された祇園官(現、須賀神社)が近世には当寺の抱社であったことが判明し、戦国期に協調と対立を繰り返した東西肥前千葉氏の存在形態を考える上で興味深い材料をえた。また佐賀県立図書館鍋島文庫所蔵の「徳島系図」によって千葉氏に従って西遷した岩部氏らの系譜が判明。さらに肥前千葉氏が「千葉介」の伝統的称号をもって在地に臨んだことも諸史料から確認できた。 下総千葉氏の庶流美濃東氏については、15世紀に至っても幕府の意志を背景に、武蔵千葉氏と密接な政治的関係を保っていたことが文献調査や先行研究の検討によって明らかになった。 次年度はこれらの成果を踏まえて西遷の社会的・文化的影響について検討したい。
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