鎌倉時代における下総千葉氏の肥前小城郡にたいする支配について、中山法華経寺所蔵の『日蓮遺文紙背文書』によって判明した事実から、13世紀半ばの日本列島には、すでに遠隔地所領の資本をもとに替銭によって資金を調達するほどの信用経済が確立していたことや、千葉氏にとって京都が西国の所領経営の拠点としてきわめて大きな位置を占めていたことを明らかにした。 なお、千葉氏の都市領主としての完成度の高さは文化面にも反映しており、『源平闘諍録』は、かかる環境の下で13世紀半から後半の時期に作成され、肥前千葉氏に相伝された可能性の高いことを指摘した。 美濃に移住した東氏は、西遷以前から蔵人所に出仕して歌道に長じ、中央貴族と一定の関係を結んでいた。承久の乱の勲功賞として美濃国山田庄(岐阜県郡上郡大和町)地頭職を拝領して西遷の後は、歴代が在京人として六波羅探題の指揮下にしたがった。東氏も西遷の際、千葉氏一族の守護神である妙見を美濃に勧請している。現在、大和町に所在する明建神社がそれであり、毎年八月七日には例祭である「七日(なぬかび)祭」が続けられているが、この七日祭における神事は宮座によって奉仕されており、この奉仕者組織と祭礼には下総における千葉氏の妙見信仰の様態が断承されているという。 この東氏や同じ下総千葉氏の一族で安芸や若狭に展開した白井氏は、中世後期に至っても妙見信仰を媒介に千葉氏一族としてのアイデンティティを保ち続けており、南北朝内乱の終息後、武士たちは遠隔地散在所領を分配・放棄して拠点地域に支配を集中させて、人と物のグローバルな移動は停滞するようになるが、一族間の精神的紐帯のネットワークは中世を通じて維持され続けたことが明らかである。
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