本研究は、韓国併合に至る1904-10年の日韓関係について、その間に結ばれた『日韓議定書』(1904年)、『第1次日韓協約』(1904年)、『第2次日韓協約』(1905年)、『第3次日韓協約』(1907年)、『韓国併合に関する条約』(1910年)などの諸条約締結過程を中心に外交史的考察を行ったものである。 日露戦争開戦後、日本は韓国外交権に介入する道をひらき、戦後直ちに保護条約締結を強要し、韓国を保護国とした。さらにその2年後、韓国内政権を奪取する条約を強制し、ついに1910年に韓国を併合し、日本の植民地とした。それは日本の朝鮮侵略の過程であり、不当なものであることはいうまでもないが、諸条約は法的に有効であると考えられている。 これに対し、韓国における歴史研究は、諸条約は両国間の合意に欠けるばかりでなく、締結手続き上の欠陥と条約形式上に瑕疵があり、無効=不成立であったと主張する。その結果、韓国併合は不成立であり、日本の朝鮮支配は合法的な植民地統治ではなく、強制占領であったとする。あるいは、法的根拠がないまま行った植民地支配は不法であったのだから、それに対する謝罪と賠償を日本に求めるという論理である。 このように日本と韓国とでは、日本の朝鮮支配についての歴史認識に大きな差異があり、『過去の清算』の障害となっている。私見では、諸条約は不当ではあるが、有効とみるが、この研究では、可能なかぎり詳細に史実を検証し、その論拠を明らかにすることに努めた。この研究では、ソウル大教授李泰鎮の『条約無効=植民地不法論』を批判したが、これを契機に展開されるであろう論争が、不毛な結果に陥ることがないよう、より実証的な歴史分析の上にたち、広く日韓の研究者に開かれた形で展開されることを期待している。
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