1.石谷備後守による長崎貿易改革 1760年代に勘定奉行石谷備後守が長崎奉行を兼職して長崎貿易改革を実行した。改革の背景には、国内産出銅の減少・幕府財政の窮乏・貨幣鋳造事業の開始などがあった。石谷は、オランダに対して銅輸出量の減額と参府を隔年にすることを命じた。また、それまで日本から輸出していた金銀を外国から逆輸入することもなされ、この金銀は長崎から幕府への上納金とされた。この他長崎は一時的に停止されたいた運上金も再び徴収されるようになったのである。石谷備後守は「御国益」という言葉を多用しているが、これは林子平の経済思想からの影響ではなく、新井白石の考えの延長線上にあるものである。石谷は、「御国益」(金銀銅)が海外に流出することを問題視していたのである。さらに石谷以前の1740年代後半には混乱した長崎貿易を改善するために、勘定奉行松浦河内守が長崎奉行を兼職し、長崎貿易改革を行ったが、この2つの改革は連続するものではなく、それぞれ改革の背景が相違していることも明らかにした。 2.オランダ東インド会社の日本樟脳貿易 日本樟脳の輸出状況を主にオランダ商館の商業帳簿により、1620〜1805年までの間の年別輸出量・単価、日本樟脳の販売先などを明らかにした。樟脳は、18世紀に入り仕入価格が2倍以上に値上がりし、主要な輸出商品であった銅・小判が輸出不振に陥るに至り、輸出商品のとしての重要性は高まってきた。従来欧米の東南アジア貿易史・オランダ東インド会社史研究において、日本貿易の状況については殆ど紹介されていない。そのため今回は、広く欧米の研究者に日本貿易の意義・実態を紹介するため英文により論文を作成した。
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