李朝前期の主たる埋葬法は、上層階級が二重葬、庶民は死体遺棄であった。王朝権力は儒教の礼教を暴力的に教化することによって、埋葬を促進することを意図した。その結果、李朝後期に至ると上層階級は埋葬地を次々に変えるという「改葬」という手段を取って対抗し、庶民は王陵や権力者の墓に秘かに自家の棺を埋め込む「偸葬」という手段を以て対抗するようになる、ということが研究によって判明した。なぜ彼らが直接埋葬することを避けるかといえば、風水の良い土地に埋葬することによって自家の繁栄を図ろうとしたからである。 また後期になると、上層階級では埋葬する墓地(墓山)を確保するため、互いに山争いを頻繁にするようになる。それが訴訟になった物を「山訟」という。王族や外戚では山裾の村を強制占拠し、そこに墓を建てる、ということを行った。李朝ではこれを統制しようと様々な法令を発し葬喪礼教化を行ったが、次々にザル法化し形骸化していった。18世紀になると山訟は恒常化し、訴訟の10件の内8件は山争いという状況に至った。本研究ではその訴訟を詳細に分析することにより、朝鮮王朝後期の葬喪礼教化史を明らかにした。
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