本年度の目的であった資料の蒐集であるが、地籍図の入手は困難であり、写真を利用してデータ化を進めた。5000分の1地形図は、韓国で直接購入したが、決済の関係で自費負担とした。またこれまで撮影した関係遺跡・文字資料等の資料化もすすめた。さらに百済の故地の研究機関を訪問し、調査の現状に対する認識を深めた。 こうした作業と並行して進めた作業で得られた成果は、まず「百済後期王都泗〓城をめぐる諸問題」である。そこでは、進出の木簡・扶餘博物館旧蔵瓦銘等を用いて、百済の後期王都の構造を再検討し、王都の五部の配置、および五部の下の巷制に対する具体的な構造について考えた。五部は、高句麗のそれとほぼ同じく、中部を中心にして前部・後部・上部・下部がそれぞれ南・北・東・西に配され、その各部に同様な配置の五巷が属した、とみた。また王城扶蘇山城に対する発掘調査報告書をふまえて、その造営が遷都前に始まっていたこと、および城壁の構造が文献にみえる「〓」にあたるのではないかと考えた。その他、泗〓城の、朝鮮古代都城史における位置づけについての私見に対する批判に答えて、羅城は高句麗よりも先行し、かつ中国制導入の一環としてとらえることができることを再論した。 次に「新羅五小京の成立と国原小京」では、新羅人のなかで総体として特権支配層を形成いていた王京人の問題を確認するためにも、地方に設置された小京の設置目的と背景について検討した。その場合、いち早く設置された国原小京を中心にして考察し、小京人にも王京人と同じく京位が与えられていること、およびそれが小京優遇策であることを述べた。また新羅の統一後の小京設置は、すでに王京の変質後であり、それに伴って小京の意義・位置づけも異なることを明らかにした。
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