本年度は、写真資料・地図の整理を行い、考察は特に高句麗の王都研究について進めた。その中心となる「高句麗の平壌遷都」と題する論考は、現在投稿中であるが、その内容は、次の通りである。427年の平壌遷都をめぐる諸問題を総合的に検討することを目的として、「一 遷都以前の平壌」、「二 平壌遷都の背景」、「三 平壌前期王都の構造」「四 坊里制をめぐる問題」の四章構成で執筆した。一章では、従来から背定否定両論のあった343年の平壌・東黄城への移居を是認し、平壌附近に居住する流入中国人との関係のもとで、王が一時的に移居したものととらえ、平壌遷都の前提となることを述べた。二章では、背景として高句麗の北方領土の確定と対中国外交の安定化により、南方への積極的な進出が容易となり、対百済・新羅対策の一環という側面を重視した。また343年の移居をふまえ、衛氏朝鮮・楽浪郡以来の伝統をもつ平壌を選定したと考えた。三章では、従来の研究で問題となっている安鶴宮址の性格を中心に検討し、それが高句麗の離宮ではなく、高麗の文宗時代に造営された左官にあたることを論じ、高句麗時代の王都の構造としては、大城山城と清岩里土城のセットでよいことを述べた。四章は、それに伴って、安鶴宮址附近に想定されている坊里制の問題点を指摘した。また現在、「高句麗前期王都論」(仮題)を執筆中であり、これは高句麗前期の王都である卒本をめぐって、高句麗の初期国家を構成する部族集団(那集団という)との関係および、当時の王都の構造について検討するものである。
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