朝鮮三国それぞれの王都の個別研究をすすめ、いくらか総合的な検討もすることができた。 高句麗については、まず前期王都卒本の平面構造について考察した。中期および後期の前半の王都は、平地における王の居城と、その背後の「逃げ城」としての山城とのセット関係が、基本構成要素であることが知られているが、前期についても、遼寧省桓仁県の〓哈城と五女山城とのセットが、基本であることを示し、そうした伝統が、高句麗の興起当初にさかのぼることを確認した。後期王都平壌への遷都については、そこに至る前史、おおび遷都の背景を考察し、現在も根強く主張されている、平壌東郊の安鶴宮宮殿遺構を当時の王宮であるとみる考え方を批判・否定し、それが高麗時代の左右宮の左官にあたることを述べ、王城としては清岩里土城のほうが妥当であることを確認した。その上で、後期後半の長安城の築造と遷都の問題を追究すれば、高句麗王都の変遷について見通しを得ることができる。簡単な見通しは既に述べているが、伝統的な都づくりから、中国制をかなり意識し、その要素を導入した後期後半の長安城への展開が、高句麗の政治発展と対応するものととらえることができる。百済については、前期王都の位置や構造をめぐる問題に言及し、既に発表している後期王都をめぐる問題と合わせて、全体の変遷観を示すことができた。百済の場合も、最後の段階になって中国制の導入の問題がおこる。それまでは、高句麗同様、伝統的な王都であり、そうした伝統的なありかたと中国制の導入との関係が問題となる。新羅については、王都慶州が、高句麗・百済と違って、ほかに移ることなく千年の都としてつづいたことの意義が特に問われる必要があるが、それについて持論を述べ、最近の成果を整理した。
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