本年度は、1901年より始まる光緒新政の起点が、1899年秋からの新通商航海条約改正の交渉にあるという作業仮説の実証に重点をおいた。諸史料をあつめ、分析し、下記の結論をえた。 条約改正を発議したのは、盛宣懐である。西太后への面奏をへて、ロバート・ハートとともに清朝委員として列強との外交交渉を開始した。イギリス、日本、アメリカが好意を示し、ドイツ、ロシアは応じない姿勢をとる。これが、西太后の義和団戦争への宣戦布告の決断にどう影響したかは不明である。しかし、この外交交渉の窓口が開かれていたため、義和団戦争開始とともに上海で東南互保の交渉が容易だった。日本の小田切万寿之助総領事を幹事(輪番)として行わる。互保交渉の円満な成功の結果、そのまま北京議定書の交渉へ、さらにマッケイ条約へと展開し、盛宣懐が王文韶、李鴻章と連携しながら、新政の開始による商部を設置、総理衛門の改組などを条件に議定書の交渉の妥結へと導いたことが判明した。この盛宣懐の幕下の実力者の鄭観応と小田切とが親密であったため、小田切が列強と盛宣懐との交渉の裏面のキ-・パースンとなりえたことが突き止められた。京都の陽明文庫、日本外務省保管記録を研討した結果、近衛篤麿が国民同盟会を結成し、劉坤一、張之洞への外交的な働きかけは、日本側では、一応の成功とみられているが、劉坤一と張之洞との直接の相互書簡では、表面は友好的に処理し、西太后の対日姿勢を改めるような努力をしないことで、日本側の要求に歯止めをかけていた。このような空気のなかで、鄭観応と小田切とが親密であったことを媒介に、日本の文教制度の中國への輸入と留学生の受入れの面であった。光緒新政は商部を設置、法典編纂の開始、学校教育制度の採用(科挙廃止)の三面で日本と清朝の協力は親密となった。
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