モンゴル民族による征服王朝である元朝の中国支配の実態を祭祀制度を通して明らかにする目的で『元史』本紀などを中心に元朝国家祭祀関連記事を収集した。元朝中央における岳涜・太廟・社稷・宣聖の郊祀等の諸祭祀の各年度毎の実施表を作成し、以下の諸点がわかった。まず、『元史』本紀には、中央における諸祭祀の実施の事実が必ずしも全て記載されてはいない。しかし、他の史料から確認できる事例もあるので、『元史』本紀に記載がなくても、岳涜・太廟・社稷・宣聖の諸祭祀については毎年継続実施されたと考えてよいこと。頻度と形態について、成宗テムル以降、中国王朝的な祭祀の内実が、更に整えられていったと考えられる。特に、太廟祭祀は、5代英宗以降、年1回から年4回となり、社稷:宣聖春秋2回の祭祀とともに伝統的中国王朝と変わらない回数となった。また皇帝即位の際などに、南郊、宗廟、社稷において告祭が実施されるようになることからも、フビライ後継者にとって、正統性の権威づけとして、これら中国的王朝諸祭祀が重視されたことがわかる。ただし、皇帝親祀の回数が少ないのは、元朝中央祭祀のひとつの特徴である。祭儀の内容は、楽舞をともない三献官が神々に神酒・供物を捧げる中国的儀式が踏襲されている。太廟祭祀の際にモンゴルのシャーマン、料理人、馬乳酒等の要素が付加されているのは、祭祀の対象が元朝皇帝の先祖であるから当然である。祭儀担当官については、例えば、成宗テムルの1305年の郊祀の初献官右丞相アルスカン、亜献官左丞相アグタイ、終献官御史大夫テムデルの人選からわかるように、中央政府の首脳が担当するのが通例であるが、この点については、さらなる検討が必要である。元朝国家祭祀の実施表の分析を通していえることは、フビライの後継者達の中国化の傾向である。他の中国征服王朝の中国的祭祀採用の経過と比較すれば更に興味深い結果が得られるであろう。
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