帝国法上一領邦一宗派の原則を確立し、近世ドイツ国制史の一段階を画する、155年のアウグスブルクの宗教和議は、プロテスタント領邦については領邦教会制に道を開いたのに対して、カトリックの世俗領邦についてはランデスヘルと所轄司教との(権限)関係を未決定のままに残し、これを現実の発展に委ねたことから、以後カトリックの世俗領邦においてはしだいに進展するランデスヘルの教会統治と所轄司教との間でラントの教会支配権をめぐる軋轢・紛争が激発した。これを調停する試みが、両者間でのコンコルダートの締結、あるいはランデスヘル側の領邦司教座新設構想であった。バイエルンにおいては、所轄司教の支配権・影響力をラントから大幅に排除する内容の後者が結局挫折し、他方前者(1583年)において所轄司教の教会裁判権・支配権が原理上承認され、しかも17-18世紀に補完協定によりこれがさらに補完・補強されてラントの教会-国家関係の基本法たる地位を占めていくことから、16-18世紀に所轄司教=帝国教会が、カトリックの世俗領邦における領邦主権の貫徹を阻害し続け、この方面から帝国国制を維持するポジティヴな役割を果たしていくのである。
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