研究概要 |
1.各地の鋳造遺跡出土資料の集成作業をおこなった結果,岩手県西磐井群平泉町,福島県いわき市番匠地遺跡,石川県七尾市七尾城シッケ地区,京都市内各所,奈良県明日香村飛鳥池遺跡,鳥取県倉吉市伯耆国府跡,福岡県太宰府市条坊遺跡など,20数ケ所の遺跡において鏡の鋳型が出土していることが判明した。古代の官衙的工房や貴族の政所的工房からの出土も多いが,時代の下降とともに,鏡師と呼ばれる鋳造工人による自立的生産が拡大してゆく。有力な戦国城下町には鏡生産工房が確実に成立しており,江戸時代には民需的鏡作り工房が全国的に定着した。そのなかで,京都では鋳物生産の歴史が継続しており,鏡作りの中心であったことを物語っている。 2.歴史時代の鏡作りの鋳型には,全体が均質な粘土で形成されたものと横型の上に真土を塗布したものの二者があることが判明した。前者は原型から形をうつしとったものが多く,後者は塗布した真土の上に文様を彫りつけるのが基本であったとみられる。そして,11世紀末〜12世紀初頭ごろを境にして,前者の手法から後者の手法に転換していったことを確認した。これは、ぼう唐鏡から和鏡への鏡の文様意匠の変化にも対応する。 3.銅滓の文化財科学的調査は,京都大学構内AP22区の鋳造遺構出土銅滓試料(9〜10世紀)を対象に実施した。試料をICP発光分析法によって分析した結果,銅(Cu)と少量の砒素(As)からなることが判明した。わが国では弥生時代以降6世紀ごろまでは,銅(Cu),錫(Sn),鉛(Pb)を基本成分とする青銅合金が使われているが,7世紀以降,合金組成は砒素銅に変わることが知られている。今回の分析によって,この砒素銅が,さらに10世紀まで使われていたことがわかり,鋳物生産の技術総体の連続性を指摘しうるものと考える。
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