研究概要 |
この研究は、7・8世紀のガラス製造やガラス製品の生産について行ったものである。まず、砲弾形をしたガラスルツボの分析では、現在までに14カ所の遺跡から100点以上の出土が認められるが、その出土地は石川県・滋賀県各一遺跡のほかは奈良県の飛鳥・藤原京域や平城京域に限定されていること、年代的には7世紀後半に出現し、奈良時代を通して認められること、そして一遺跡からの出土量は明日香村飛鳥池遺跡で例外的に約90点の出土量があるが他の遺跡では多くとも数点にすぎないこと,そしてルツボの容量は約400ccを最大としており、1点のルツボからは玉類を除くと一度に大量の製品を生産しえないことなどが判明した。また.砲弾形をしたガラスルツボの出土例を海外に求めると韓国扶餘地方に知られるようになった。一方、ガラス小玉製作鋳型は約10カ所の遺跡から出土しており、年代的には古墳時代から8世紀の奈良時代まで存続し、形態的に変化のないことが判明している。ガラス製品の理化学的分析では、7・8世紀のガラスは基本的に鉛ガラスであり、従来の通説を追認するに止まった。 我国のガラス製品はすでに弥生時代には存在するが、ガラスそのものの製造が弥生時代から行われたか否かにについては議論のあるところである。今回行ったガラス関係資料の分析を通して、ガラス小玉製作鋳型は古墳時代から奈良時代を通して存在するものの、砲弾形をしたガラスルツボは7世紀後半になってはじめて出現することから、ガラス製造が弥生時代や古墳時代に国内で行れたとしても、それは7世紀後半の製造技術とは異っていたものと推定されるようになった。そして7世紀後半に始まるガラス製造の新技術は当時の朝鮮半島との交流の中で導入されたものであり、生産量の増加が7世紀後半に我国に出現する緑釉(鉛釉)の棺や〓の製作を可能にしたものであろう。そして律令体制下のガラス製造および製品の生産は官の統制下に容器の製作よりも玉類を中心とした装飾品の生産に主眼がおかれていたものと考えられる。
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