本研究は、律令制下地方行政組織の最末端に位置する郷に、「郷衙」とよぶべき行政の拠点施設が存在したか否か、その存否論争の再検討を通して、論争に決着を図ることを目的とする。研究方法は、「郷長」「里長」と書かれた墨書士器、刻書紡錘車などを出土した遺跡の分析を通して、郷長の居宅の構造を明らかにするとともに、古代集落遺跡の中にみえる官衙的要素を摘出し、その性格を研究した。 その結果、判明した諸点は以下の通りである。 ・郷長関係文字史料を出土した遺跡の分析により、これまで郷衙と認定されてきた遺跡に一般集落タイプと類官衙タイプの二者が存在することが明らかになった。 ・前者は郷長の私宅の城を出るものではなく、後者は郡衙の出先機関として設置された可能性が高い。 ・稲倉の規模や保有棟数からみて、郷長の在地における経済的優位性は抽出できない。 ・在地における郷の分析によって、集落の再編を主導したのは、郡司もしくはそれと同等の経済力を持ち、律令国家の末端につらなる有位の在地豪族層であるという見通しを得た。 以上のように、郷長の経済的優位性は認められず、また郷長の居宅に付随するような官衙的施設も抽出できなかったことにより、「郷長の私宅に付随して郷衙が存在する」という説に対して否定的な見解が得られ、郷衙とよぶべき行政施設は存在しないと結論できた。これらの事実は、郷長が白丁から任用され、律令官人機構の中に組み込まれなかった事実と符合する。
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