柳亭種彦に関わる重要な問題のひとつに、旗本であった種彦がどのような形で戯作界に登場したのかというものがある。ひとつの可能性として考証随筆の世界における大田南畝や山東京伝との交遊から、板元との関係ができて、戯作への道を道を歩んだということが考えられる。しかし問題となるのは南畝や京伝の門弟ではなく、談洲楼焉馬の門人を戯作界ヘデビューした後で名乗っていることである。これからは咄の会との関係を窺うことができるが、求められている問題の解としては、その根拠に乏しい解である。 そこで種彦が最初に執筆した読本や合巻の刊行状況からこの問題を考察してみた。この両者は商品性が高いという特色を持っている。読本は文化五年をピークとして、馬琴や京伝といった従来の読本作家だけでは板元の需要に応えられないという、文壇的状況があった。そのため種彦のような作者にも作品を執筆する機会が巡ってきたのである。その作風は京伝を模倣したものであった。合巻についても新規参入の板元が増え、文化前期には板元数が倍増した。その結果板元による旧来の作者・画工の囲い込みと、新規の作者の発掘が始まり、読本作者としての実績のある種彦はその格好の目標となった。一方でその無秩序に近いその状況は当局の介入を招き、文化五年九月の合巻作風心得の通達となった。その結果、残虐な内容の合巻の刊行は文化七年以降不可能となり、京伝の合巻がそれ以降の主流となり、東里山人・橋本徳瓶らの模倣者を続々と生み出した。その中で傑出した作者が種彦であり、京伝の関心が『骨董集』の執筆に向かうと、種彦が中心的な合巻作者となり、京伝の演劇的趣味が豊かな作風を発展させた文化十二年の『正本製』初編の刊行となったのである。
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