ランボ-の詩・詩論および同時代の歴史的状況に関して資料収集をするとともに、ランボ-の詩・詩論中のキリスト教に関連する諸々のイメージがどのように現れ変化して行ったかを検証した。 この検証の過程で、つぎのようなことが明らかになった。すなわち、キリスト教のイメージは解体され忌避されたあとなおも一縷の救いの可能性としてランボ-の心にまとわりついていたわけだが、しかしこのようなキリスト教との精神的葛藤と並行してランボ-は、ロマン主義的・上昇期ブルジョア的な思考システムと対決しつつこのシステムから排除された者たちへ目を向けていった、ということである。既成のキリスト教的思考を乗り越えることと、19世紀的上昇ブルジョア思考を乗り越えることは、ランボ-にとって同じひとつの作業だったのである。『地獄の季節』では、〈神〉や〈現世の幸せ〉との葛藤の末それから脱し、ついに「是が非でも現代的でなければならぬ」との断定に至るが、このときランボ-は二重の乗り越えを完遂したと言ってよい。『イリュミナシヨン』では宗教的なイメージは、でてきたとしてももはやキリスト教や19世紀ブルジョア的思考からはかけ離れたものとなっているだろう(「ジェニ-」など)。 以上の考察の一部は、1996年12月にヴァランシエンヌ大学(フランス共和国)で行われた学会『詩の賭けるもの』において発表され、97年の夏に研究誌<Poietiques>___- no.5に掲載の予定である(ヴァランシエンヌ大学出版局、印刷中)。
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