ドイツ概念は8世紀、まさにフランク王国の成立・解体と神聖ローマ帝国=「ドイツ第1帝国」成立時、ドイツ言語文化史の起点において、中世ラテン語のtheodiscusという形で現れ、ついで10世紀になってから古高ドイツ語のdiutiskという形で現れる。この概念は成立時に専ら言語を対象にし、歴史言語学にいうゲルマン諸語を広く指示した形跡があり、11世紀以降になってようやく国・民族の意で用いられるようになった。 歴史言語学にいうゲルマン諸語の特定部分を、しかも複数の方言を統合する形でドイツ概念に包含させる過程は、自然史的な言語史の流れの中で発生したのではなく、むしろそれとは対立する形で、中世国家形成・運営のための言語政策の結果として発生したと思われる。この言語政策の基礎は、中世ラテン語文化とゲルマン語文化との対立と統合過程にあり、文化的に優位であった中世ラテン語文化における言語観こそが、ドイツ概念成立の核をなしたと考えられる。 ドイツ概念史は主要には言語事実の問題ではなく、言語意識と言語交通に関わる問題であり、ライン河以東に残留したゲルマン系諸言語文化集団間での共通言語文化圏成立の問題である。 ドイツ概念成立時には国有名詞の前提となるような「ドイツ」という具体的で固有の実体が言語意識上存在せず、言語政策の結果として成立したこと、またドイツ概念のその後の確立・展開過程にあってもその性格が払拭され得なかった。言語文化上に統一された実体がなかったからこそ、ドイツ概念の特異性が生まれ、言語政策の必要とその効果があった。
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