ム-ジルの『特性のない男』(以下"MoE"と略記)の登場人物の一人であるクラリセに焦点をあて、その人物像の変遷から"MoE"を考察することに今年の研究の重点を置いた.そのための準備作業として、(1)遺稿を手がかりに、クラリセ像がどのように生成されてきたかを辿り、(2)1920年代半ばに書かれたかなりまとまった遺稿(Sテキストとよぶ)のクラリセと"MoE"のそれとの違いを確認した.その結果以下のことが明らかになった."MoE"においては多くの登場人物の一人にすぎないクラリセは、ごく初期の段階から中心的な役割を果す人物であり、とくにSテキストにおいては、主人公ウルリヒと対をなすアガ-テと同等の役割を与えられている.その際特徴的なのは、"MoE"においてはクラリセから冷たい距離を置いているウルリヒが、Sテキストにおいてはクラリセの言動に深くつき従うということである.Sテキストにおいては狂気は認識の問題、生の不確実性の問題であり、それゆえウルリヒはクラリセの狂気に深く関わることになったと言える.しかし"MoE"においては、ム-ジルはSテキストのような形で狂気を描くこと、そのような形で生の不確実さの認識を狂気にひきわたしてしまうことを拒否したというべきであろう.それはクラリセの描き方にも表れていて、Sテキストにおいてはひたすら狂気に身を委ねたクラリセは、"MoE"においては一種の歴史性とユートピア性を獲得している.ム-ジルのテキストは、象徴的な言語の権力性、恣意性を厳密な論理、冷静な風刺によって穿ち、その裂目からのぞく不可能な状態に目を開かせ、耳を傾けさせる.しかしその際ム-ジルのテキストは、ディスクール分析的見地からは、レアールなものへの下降ではなく、イマギネ-ルなものへの回帰を指向する.草稿のクラリセと"MoE"のクラリセの違いにも、それがうかがえると言える.なお研究成果を論文にまとめた(3月末発表予定).
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