ディスクール分析は、ある時代の文学をア・プリオリに規定しているディスクールがどのようなものであり、それがいかに成立したかを問う。そうした観点で見ると19世紀は、レアールなものを象徴的なものに、象徴的なものをイマギネ-ルなものに還元するというシステムと呼応する形で、文学という制度が確立した時代である。その三位一体に亀裂が入る20世紀において文学は、言語の象徴性を徹底させるか、レアールなものの表現可能性を追求するかの二方向に向かう。ム-ジルのテクストは後者であって、言語の権力性・恣意性を、厳密な論理によって穿ち、その裂目からのぞくレアールなものに目を開かせる。イマギネ-ルな像を結ばせるはずの比喩を駆使しながら、そのような像を決して結ばせないことで、像によって成り立つ現実に回収されえないものを指し示し続ける。それは端的には、言葉の他者である音(ざわめき)という形であらわれる。それが最も顕著に示されているのが、短篇小説集「合一」である。一方「特性のない男」においては、言語というメディアに回収されないものを言語化しよという(それ自体パラキシカルな)試みは、ウルリヒとアガ-テの愛の試みに収斂していく。けれども、それは最終的には一種の「静物面」に凝固してしまう。そのことは、言語の他者との通路を持つが故に狂気に陥るクラリッセとモッスブルッガ-が、次第にこのテクストの背後に退いてしまうこととパラレルである。それはまた、破棄された遺稿においては、この二人がより重要な役割を担っていることによっても裏付けられる。ム-ジルにおいて「ざわめき」は最終的には浄化され、そこに新しい言語空間が開かれるのである。
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