研究概要 |
19世紀を通じてロマン派の評判は特別に良いものではなかった。やっと世紀の転換期になってロマン派は、R.ハイム及びW.デイルタイの画期的な研究によっていわば再発見されたのである。この二人の労作が刊行されて初めて、そもそもロマン派研究なる表現が行われるようになったといえる。ウイルヘルムII世統治下でナショナリズムが台頭してくるなかでロマン派は急速に重要性を獲得してくる。この経緯は今世紀20年代、ロマン派解釈が国民主義的かつ非合理主義的なイデオロギーに危険なまでに近づいていった時その頂点を迎えることになる。民族と祖国、血と大地はロマン派作品解釈の主要な概念となった。この仮設は戦後のロマン派研究を特徴づけていたものであり、今日に至るもなお部分的にはそうである。 旧東独での研究ではロマン派運動はナチズムを生んだ元凶であると考えられた。西独ではさほどではなかったものの、しかしこちらでもロマン派研究がこの不幸な伝統の陰から脱することは容易ではなかった。その後、ファシズム批判という意味でなされたイデオロギー的な観点以外のそれが顧慮されるようになってきた。わけてもロマン派絵画、殊にC.D.フリードリヒの作品に対する芸術論的アプローチがその際大きく貢献した。 旧西独におけるロマン派研究は、まず最初戦後ゲルマニスティクの全体的な流れに沿って行われた。従って、いくつかの発展段階を区別しなければならない。50年代に支配的であったのは作品内在的な解釈である。ナチス時代に信用を失墜した多くのゲルマニストたちは今やおのれの政治的態度、否、歴史的態度を表明することすらはばかった。所謂「永遠の価値」を彼らは求めたのであった。 60年代には歴史の再発見が行われ、60年代後半には-学生紛争のもとで-作品解釈に政治問題が持ち込まれるようになる。ロマン派研究の最も新しい傾向は、H.R.ヤウスの提唱した受容論理、また所謂ポスト構造主義のフランス式理論であるが、後者は80年代に西独においても学問上の議論に強く作用を及ぼしたものである。そこにみられる主体の論理、ないし作者消滅という問題が特にF.シュレ-ゲル,ノヴァーリス,E.T.A.ホフマンについて論じられている。
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