ヨーロッパの中央に位置する町プラハは、エルベ川支流のヴルタヴァ川の浅瀬(プラヒ)でヨーロッパの東西南北を結ぶ道が交差する地点にできた町であり、古来、ヨーロッパの十字路であった。「プラハ」の名も、この浅瀬(プラヒ)に由来するらしい。プラハには非常に早い時期からユダヤ人が住み着いて、そのユダヤ人コロニーが後にヨーロッパ最大のゲットーへと発展した。また、プラハには早くからドイツ人が多く入植してきて、チェコ人との勢力関係の中でプラハの歴史を動かしてきた。更に、特にバロックの時代には、ヨーロッパの様々な民族の人々がプラハにやって来て、バロック的なプラハの形成に大きな影響を与えた。バロック期の建築や彫刻などには、チェコ人以外の芸術家によって造られたものが多い。また、両大戦間の時代にも、ヨーロッパの様々な民族の人々がプラハにやって来て、プラハの多様で高度な文化の形成に貢献した。この時期のプラハでは、チェコ語、ドイツ語のほか、ロシア語、ヘブライ語でも、刊行物が出版されていた。プラハの作家として有名なユダヤ系ドイツ語作家カフカも、ドイツ文化のみならず、チェコ文化とヘブライ文化にも深く係わっており、この諸文化の交錯と葛藤が、彼の作品にも反映している。チェコ語の姓を持つオーストリアの画家・劇作家オスカル・ココシュカは、一九三〇年代にプラハに移住したが、彼が言ったように、プラハは「ヨーロッパが最後に辿り着いた、コスモポリタン的な中心地」になっていたのである。このように、今年度の研究では、中世以来のプラハの歴史を辿ることによって、プラハがヨーロッパにおける人と文化の十字路であったことを、様々な具体的事例に即して、明らかにすることができた。
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