本研究では、戦後の北米において集中的に受容され、盛んに実作の制作が行われた日本の俳句について、それがハイク-haikuとしてどのような比較文学的課題を呈示するかが検討された。 はじめに、西欧への俳句紹介の先駆者であるB・H・チェンバレンの業績、なかんずくその論文「芭蕉と日本の詩的エピグラム」の内容が検討された。チェンバレンは、あくまでもヨーロッパ詩(あるいは英詩)の伝統的教養の観点から俳句を理解しようとしたために、俳句はきわめて断片的な印象を与えるものとなり、作品としての自立性の希薄な詩(のごときもの)として理解された。これは、チェンバレンが切れ字や季語といった俳句固有の詩学にあまり留意しなかったことと関係する。 次に、戦後の北米における俳句受容に決定的な役割を果たしたR・H・ブライスの仕事が検討された。これにより『俳句』四巻の著者であるR・H・ブライスの俳句理解が、いかに日本の文学伝統を尊重したものであり、いかにヨーロッパ詩の伝統を相対化し得ていたかが明らかになった。同時に、西洋読者の理解を助けるために、ブライスが「禅」という文脈を俳句に持ち込んだことの功罪が論じられた。 最後に、戦後の北米のハイクの一例として、ロッド・ウィルモット編の『エロティック・ハイク』というアンソロジーが検討された。これは、俳句という極東の詩形を受容しながら、アメリカのハイク詩人たちが、人間への飽くなき興味というすぐれて西欧的な立場から、ハイクを自らのものとしようとしたという点で極めて興味深い。
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