本年度は、当初の計画によれば、ギルバ-ト・ファリオットのカンタベリ大司教トマス・ベケット宛書翰(′multiplicem′)を昨年度に引き続き通読し、さらに彼の慣習法論が析出されると思われる1164年以降に属する他のいくつかの書翰を解読した上で、彼の法理論を当時の法学全体の中に位置付ける予定であった。しかし、本書翰がきわめて長大かつ難解であったため、結局本書翰の検討にとどまらざるをえなかった。 本書翰からは、ファリオットの法源論が明示的に読み取れるわけではない。しかし、「教会の自由」を主張して国王ヘンリー2世と争った大司教トマスに対する彼の激しい論難(1164年1月のクラレンドン評議会において国王から高位聖職者達に対して「王国の遵守されるべき慣習と威厳の絶対的な約束」が求められたが、これに屈したのが他ならぬトマスであったこと、トマス自身は同年10月のノ-サムプトン評議会で逃亡し、さらにヘンリー二世との対立を悪化させていったこと等)の背後には、慣習(法)についての次のような彼の基本認識を指摘することができる。それは、王自身が慣習を定めたわけではないことを強調する一方で、従来の王権と教権の間の協調関係(両者による平和と恩寵の維持)に価値を認め、愛の強い絆によって結ばれた王と祭司の相互関係に基づく平和の回復を希求するというきわめて伝統的な立場である。このような古来の慣習を重視する立場は、教会財産の世俗的所有物(temporalia)と霊的所有物(spiritualia)への区別に関する議論、教会権力の二重性(神と王による根拠付け)を説く議論の中にも見てとることができる。 12世紀を代表する高位聖職者ギルバ-ト・ファリオットの書翰を通して見る限り、教会は慣習法の法源性に否定的であったという従来の一般的理解は修正を要するというのが、本研究のさしあたりの結論である。
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