現生鯨類の形態学的記載は、一般に水中生活に適応した哺乳類としての特殊性が強調される。本研究では、むしろ哺乳類としての一般性に留意しながら、比較的従来の文献が多いイルカの筋系に関して基本的な記載を詳細に行い比較解剖学的検討を行った。 材料:マイルカ科 マイルカ(Delphinus delphis)、ハンドウイルカ(Tursiops truncatus)、カズハゴンドウ(Peponocephala electra)、ネズミイルカ科 ネズミイルカ(Phocoena phocoena)、イシイルカ(Phocoenoides dalli) 方法:イルカの頚部と体幹前部を人体解剖と同様にきわめて慎重に解剖し、筋と神経の詳細な所見を得た。所見はヒトをはじめとする陸棲哺乳類と対比し、イルカの筋系の系統発生学的な検討を行った。 所見:特筆すべき点のみを列挙すると:皮筋は腕神経叢の太い枝に支配され、羽状に配列する背側半(1)と腹側半(2)に分かれる。頭部表面から肩甲骨表面にかけて薄い帯状の筋(3)があり、副神経と交通した頚神経叢の枝に支配される。同様の線維成分をもつ神経が前部胸椎の棘突起と肩甲骨の内側縁を結ぶ筋(4)にも分布する。肩甲骨尾側半から起こり上腕骨頭に停止する筋(5)には頚・腕神経叢からの神経が肩甲骨の頭側縁で烏口突起近くを乗り越えるものと腕神経叢の背側層から起こり上腕骨と肩甲骨の間の感激を通る神経の枝が分布する。 考察:これらの特殊所見を陸棲哺乳類の所見と比較すると(1)(2)の筋は皮膚の制御を行っている可能性があるが、むしろ共働して胸ビレの内転に機能している可能性もある。(3)の筋は僧帽筋と考えられ、ハクジラには僧帽筋がないとするStlickler(1978)の仮説と相容れない。これはラプラタカワイルカの解剖所見のみからハクジラ類全体に敷衍できるという仮説で、本研究の所見からは否定される。(4)の筋は形状・起始停止からは菱形筋というべきものであるが、副神経を受ける点は今後の検討課題である。(5)の筋は棘下筋でありイルカには小円筋がないとされているが、支配神経の所見からは陸棲哺乳類の棘下筋と小円筋が融合したものである可能性がある。 以上のことから従来のイルカに関する解剖学的記載は解剖学を単なる記載の分野と考えた対処の結果で、特殊な所見は特殊な所見として哺乳類一般あるいは脊椎動物一般の規範の中で検討することが必要である。9年度以降は発生学的な検証も加えてイルカ類の頚部ならびに前肢筋の系統発生学的考察を進める計画である。
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