寛文8年(1668)、徳川幕府は作事(建築)禁令を発する。それは、規模・意匠の両面で中小寺院の建築を制限するものであった。中心となるのは梁間規制で、梁行総柱間が6間以内に抑えられた。 一方、浄土真宗では本山が18世紀前半に多数の掟状を末寺に布達する。正徳3年(1713)の掟状に注目すると、「御厨子、宮殿、出仏壇、後門、丸柱、箱棟等」の作事はかねてより「御停止」であるが、「子細」ある寺は本山の許可を得れば作事できる、というものである。また延享3年(1746)の掟状は、「仏室、内陣金張付、出仏壇」など、定めの通札銀を支払えば作事を許可するという内容で、作事の許可制を広げていった様子を窺うことができる。後門形式が18世紀中期に一斉に採用され始め、丸柱も18世紀に入ると急速に普及するという、遺構を通じて認められる変化は、こうした規制内容の改定に伴うものと考えられる。 18世紀前期から中期にかけて頻繁に発せられた規制が、礼銀による許可制荷移行していった背景として、中小寺院の経済的発展、また延享3年の掟状は15年後に迫った宗祖親鸞500回忌に必要な経費の確保が目的ではなかったかと考えられる。 浄土真宗本堂の近世における展開は、寺格に応じて大きな差があり、後門形式や丸柱の普及については寺格の高下によって時期的な「ずれ」が明確に認められる。こうした変化は、幕府・本山による建築規制の影響を強く反映していると考えられる。
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