日本の建築の近代化は、自国の既成状況の変革のために西洋の近代主義思想を問題解決の方法として受容してきた過程だと言えよう。この過程においては、西洋の近代主義思想の受容以前の状況と受容後の状況が問題になる。受容以前では、西洋の近代主義思想に対する潜在的な要求がどのようなものであったか、受容以後においては受容により生じた既存状況との軋轢とその解消が問題である。本研究は、こうした問題を日本の近代建築運動を事例として検討したものである。 本研究では1920年から1930年頃にかかけての近代建築運動を三つに区分し各章をあてた。第一は1920年から1928年にかけての初期、第2は1928年から1930年にかけての中期、第三は1930年代前半の後期である。第1章では、表現主義の受容を論じた。表現主義は日本の前衛的建築家に大きな影響を与えた。その実態を概観した上で、前衛的建築家のひとりである川喜田煉七郎の初期作品を検討した。その結果、表現主義の受容が、実務的な建築設計を否定し、理想の建築とその姿の構想を可能にしたことを明らかにした。第2章では、バウハウスとデ・スティルの受容を論じた。それが近代建築運動が理想の建築を現実的に構想し直す契機となったことを明らかにした。第3章では、構成主義の受容を論じた。1920年代の近代建築運動の集合的活動における思想が、どのような活動に継承されていったかに着目し、事例として、ソ連におけるウクライナ劇場国際設計競技への応募案、ドイツからもたらされた鋼管椅子の国産化、バウハウス予備課程カリキュラムの受容と実践を検討した。構成主義はこうした個別の事例に結実したことを明らかにした。
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