研究概要 |
田淵まさ代の、特筆すべき事項として1,(1),大正10年〜11年(1925〜1926)に英国ロンドン大学ベットフォード女学部で開催の第2回国際的公衆看護講習会へ留学、このことは日赤本社看護婦養成科目に社会衛生看護の1課を加えることとなった。(2),帰国後、語学の必要性を感じ、日赤看護婦に看護婦外国語学生規則の制定を進言実現するに至った。(3),大正12年(1927)北白川宮紀殿下の看護でパリ-へ出張を命じられた。(4),昭和12年(1937)フローレンス・ナイチンゲ-ル記章を受賞した。などがあげられる。 本年度の研究実施計画では、史料収集には聞き書きとして後継者田淵恒男氏、日赤本社資料室吉川龍子氏、津山洋学資料館学芸員下山純正氏、津山科学教育博物館館長森本謙三氏、渡辺千代子氏、福田哲子氏、成木みさお氏、小林聆子氏に語ってもらった。文献では後継者宅、日赤本社資料室、日赤看護大学図書室、国会図書室、岡山県立図書館、岡山中央図書館、津山洋学資料館、津山科学教育博物館で検索を行った。 2,本年度明確になったことは、(1),日赤本社看護婦養成所入学前の市立津山女学校校長竹内文の英語教育が強く影響していた。現在する明治45年のまさ代の日記には東京へ移り住んだ恩師竹内文の住所の記載があった。そして日記を通覧すると外人による英語の学習をうけるため定期的に広尾へ通っている。留学が決定してから後は勤務の融通を願い英・米人女性から英会話の練習を受けていた。(2),晩年の生活については、60歳で日赤本社病院を退職し郷里岡山で養子に迎えた末弟夫婦、孫夫婦らとともに過ごし、残っている日記を見ると、長年規律ある職を勤めた人らしく規則正しい生活であったと伺えた。
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