運動発生問題では、「わかる」と「できる」は決定的に区別される。すなわち、「できる」ことでしか運動発生の次元は語られないのである。ボイテンディクは人間に固有な動き方というものは、動物と全く別な立場に立っており、その立場を「場の意識」(das positionelle Bewuβtsein)と名付けている。この「場の意識」はメルロ=ポンティも指摘しているように、状況から要求される根元的体験なのである。それ故動くこととは、知ることではなく、できるという一つの能力なのであり、〈〜と思う〉(je pense que)の意識でなく〈私なしうる〉(je peux)という意識なのである。慣れた動きを行うときの行うという意識というものは、「行うことができる」(Tunkonnen)と全く同じことなのである。単なる「なしうる」という抽象的な意識ではなく、具体化された意識である。このように、人間の動き方とはTunkonnenということに理解されよう。 このような前提を起点として、我々が動きを覚えるときに「知覚の構造化」がなされるのである。その結果我々は、Bewegungを習得したのではなく、Bewegungsweiseを習得したことになる。このBewegungsweiseこそ「運動ゲシュタルト」の問題であり、「運動ゲシュタルト」はまさに〈現象身体〉のなかで取り扱われる。したがって、〈対象身体〉として自然科学的分析をしても、運動発生という〈現象身体〉の中での「こと」は当然理解されない。今年度の研究では明らかになったことは、"〈現象身体〉という「身体知」によって運動が発生すると言うこと"、"対象化された運動を見るときも、「生きた動き」として我々は動きを〈現象身体〉として観察すること"である。〈対象身体〉と〈現象身体〉とを截然と区別することによって、次年度の研究の基盤ができたと考えられる。
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