運動発生問題では、分かるとできるは決定的に区別される。というのは、分かっていてもできなければ運動が発生したとは言えないからである。どうしたらできるかという問題は今まで知ることで解決されると考えられていた。従って、科学的分析が運動研究の主流を占めることになった。しかし、指導実践場面では知ることができることへつながらない矛盾を経験している。そこで本研究は運動が発生する仕組みはどのようになっているのかをキネモルフォロギ-的立場から明らかにした。 その結果、運動を覚えると言うことはボイテンディクの言う知覚の構造化を学習者がおこない、シュトラウスの言う動きかたを覚えたときに運動が発生するということが明らかになった。その知覚の構造化は<現象身体>の中で行われるものであり、決して<対象身体>として考えられるものではない。その<現象身体>の中で、動きのメロディーを奏でたときに始めて運動が発生するのである。この<現象身体>としての動きの捉え方は運動ゲシュタルトとしての動きの把握を基礎とする。運動ゲシュタルトとして動きをとらえることを前提として、始めて運動発生の問題が明らかになる。つまり、ゲシュタルトとしての運動は部分の総和と異なり、それによって自然科学的分析の対象から外れるのである。運動発生問題は主体がいかにして自らの体を駆使して、知覚の構造化を行うかが中核となる。<対象身体>としてその現象を図形的にとらえてもその意味と価値はとらえられない。各音をつなぎ合わせによって、音のメロディーが奏でられないのと同様に、運動においてキネメロディーを奏でるには、要素主義的な部分的な動きの解決では運動発生は行われない。このキネメロディーを奏でる方法論が今後の課題となろう。
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