アメリカにおけるグローバル教育の視点を踏まえて、都市と都市間ネットワークの成長と変動を軸に「世界史」を構成する方法について考察を加え、特に「世界帝国」の周縁部に位置する港市と海のネットワークの消長が持つ意味を明らかにせんとした。海禁政策と勘合貿易により海上交易を帝国の管理下に置いた明では、16世紀に入ると密貿易といかたちで海上交易が蘇り、明帝国の周縁部における密貿易港の成長と密貿易ネットワークの発達は、やがてポルトガル商船を媒介とするインド洋・東南アジアの物産、日本が産出する豊かな銀と結び付いて、福建・浙江の沿海部は密貿易ネットワークと深いかかわりをもつようになった。海禁政策の空洞化を恐れた明帝国は浙江における密貿易の拠点港市、双嶼港を壊滅させるなどの挙にでたが、交易拠点を五島・平戸・薩摩などに移した密貿易商人は武装貿易を敢行し、浙江における交易拠点の再建を図った。それが嘉靖(後期)倭寇である。王直などが組織した倭寇が如何なる目的を持ち、明帝国の商業ネットワークといかなる関係を有したのかの解明がめざされ、同時に嘉靖倭寇が日本、中国の教科書でどのように扱われているのかをも検討した。中国では抗日戦争期の倭寇観が現在も継承されており、ナショナリズム教育の教材として依然用いられていることが明らかになった。日本人を夷秋視する歴史観は、両国の善隣関係を強化するためにも、再検討が必要であることを論証した。 1567年に福建の密貿易港市、月港が開港され、1572年にマニラが開港されると、月港-マニラ-メキシコのアカプルコという新たなネットワークが生まれ、ガレオン貿易によって新大陸のネットワーク、創成期の世界システムとつながることになった。マニラと月港の間の交易を中心に、この新しいネットワークの解明も行った。
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