マックス・ウェーバーはその宗教社会学において「宗教」の定義づけを留保したが、宗教に関するウェーバーの様々な論究を踏まえると、ウェーバーのいう「宗教」の或る程度の輪郭は浮き上がってくる。私見では、そこには、大きく分けて、(1)〈世界像(意味)〉、(2)〈道徳(自己規則)〉、(3)〈体験(自己解放)〉、という三局面が想定されているように思われる。現代日本人が宗教に関心をもつモチーフには、上記のウェーバーの「宗教」の内実と照らし合わせて考えみると、以下のような三つのパターンが想定できる。第一に、科学のもとでは対応しえない、人間の生と死の不条理性を含めて、すべてを包摂し説明しきるような世界像を求めて、或る種の宗教的世界像に接近するというようなパターン。第二に、金もうけや暴力やいじめにまみれたこの世俗世界の汚らわしさ・人と人との疎遠さに対して、或る宗教団体の中の人間関係はいかにも緊密でアットホームであり、そこでの道徳のうるわしさにひかれて入信するというようなパターン。第三に、受験戦争や会社での競争原理に疲れ果てた人々が心と体の平安を求めてたとえばヨガの実践に入っていくというようなパターン。(モチーフについてはなお実態調査の途上にある。)ところで、西洋も日本も総じて少なくともこの百年の間"近代化の精神"を意識的に把握することを課題としてきた。この近代化の精神は、(1)自然科学に依拠し伝統や迷信に惑わされない態度、(2)周囲の人間(世間)に流されない自律的態度、(3)「世俗内的禁欲」といわれるような節度ある態度、これらを標榜してきた。だが、これらは(1)人生や自己についての意味(世界観)を何ら与えず、(2)個々人の孤立をもたらし、(3)なまの感情や意志を抑圧してしまう、というネガティヴな陥穽を伴っていたのである。このような「近代」そのものの問題性が、前述の"宗教への接近"の背景にあると私は考えている。
|