まず、水田養魚に関して、中部地方・中国地方・九州地方など日本各地において、現地調査と文献資料を用いてイクステンシブな調査を行った。その後、長野県佐久地方と新潟県上越地方の山間地に調査地を絞って、水田を舞台として成立する「人-稲-魚」の三者関係に注目しながら、インテンシブな民俗学的聞き取り調査を実施した。昭和初期の日本において最も進んだ水田養魚を行っていた佐久地方に対し、上越の山間地においては素朴な段階の養魚慣行を聞き取ることができた。 その結果、佐久地方のような養魚の先進地は、多くの場合、平野の縁辺部に位置し湧き水の豊かな地にあることが分かった。そこは高度に水田稲作が発達した地域でもあった。とくに水田水利に代表される水制御のレベルは高く、そうした高度な水田稲作を背景にして水田養魚が発展していったといえる。とくに高度な水制御が必要とされる稚魚の産卵孵化の技術などにそうした点が読みとれる。また、稚魚の産卵孵化の技術を持たない一般の稲作地においては、佐久のような先進地から稚魚の供給を受けることによって水田養魚を行うようになっていた。長野県内では佐久地方以外にも下伊那地方・南安曇地方・埴科地方の計4か所の先進地が形成され、そこから稚魚の供給を受ける形で県内にほぼくまなく昭和初期において水田養魚が行われるようになっていた。 それに対して、上越地方の山間地においては佐久のように大きく発展することなく素朴な段階の養魚が行われてきた。そこでは水田とともに屋敷内の池(タナイなどと呼ぶ融雪用の池)が養魚にとって重要な意味を持っていた。総じて人による魚への管理レベルは低く、とくに産卵孵化に人が関与することはほとんどなかった。このことは佐久のように産卵孵化の場所のみならずその時期までも人が管理していたこととは対照的である。
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