本研究では、従来ほとんど注目されてこなかった日本古代の百姓像や国家的な農民規範の問題に焦点をあて、その内容を具体的に考察し、また日中比較研究を試みた。その研究成果は次の通りである。 第一に、日本の王権は規範奨励のやり方をめぐり中国王権の大きな影響を受けているにもかかわらず、そこで育成が図られた農民像のあり方は中国のそれと少なからず異なっていたこと、第二に、具体的には、中国では一貫して「農桑労働への専念」というモラルが重んじられていたのに対し、日本では、農民による「社会的弱者の救済」という要件に重点がおかれており、それは「力田」という史料用語の概念の違いに典型的にあらわれていること、第三に、かかる違いは日中双方の社会のあり方の相違を反映しているが、とくに日本の場合、それが敢えて奨励されだした要因としては、八世紀初頭以降、急速に昴った社会の「流動性」(=浮浪・逃亡行為の激化と都鄙間交通の増大)が関連すること、などの点である。 これらの点を踏まえ、さらに究明されるべき課題の一つは、このような独特の形をとった国家的な農民規範を奨励せしめた在地社会側の規範意識(=「ことわり」)は、はたしてどのようなものであったのか、という点がある。これについて報告者は、前述の社会の「流動性」の問題と関わってその一端を分析したものの、その全面的な検討には至っておらず、今後、それをトータルに検討する作業が不可欠になると思われる。
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