満州事変前後期(1931年9月18日)における日本の対中国政策研究として、まず、中国の治外法権撤廃要求に関して、中国中央での交渉と地方でのなし崩し的な導入、これに対する日本の認証等を分析することで、満州事変前の治外法権撤廃問題が「満州国」の治外法権撤廃へと連続して存在することを明らかにした(「『治外法権の撤廃』と『治安維持』」『広島平和科学』18)。そして、西原借款に代表される日本の対中国債務の整理問題について、広島史学シンポジウムで「日中経済提携の蹉跌-満州事変前の債務整理問題について-」と題して研究報告を行った。(1996年10月26日)。結果として債務整理資金の中国国民政府への再投資による日本の対中国経済提携政策は一旦挫折したものの、政策的方法、つまり、中国政府内部に提携相手を設定する方法は、満州事変後も連続して存在することを実証した。 さらに、「親英米派」の国際関係観が満州事変前後、そして、それが戦前・戦後を通じ連続して存在することを西園寺公望、阪谷芳郎、吉田茂の三人の人物に仮託して分析した。結果として、彼ら「親英米派」にとって満州事変の衝撃は大きいものでなかったがゆえに、1930年代、40年代を通じて一定の政治力を保持できたことを実証した。また、吉田茂の場合は、「市場」としての対中国認識と「対英米強調」を、前者を東南アジアにかえることで戦前・戦後と連続して存在しえたことを明らかにした。 なお、これらの分析の前提として歴史学の下位分野である近代文書学について「外務省文書・外務省記録の生成過程」(『日本歴史』584号)および「『昭和期』外務省文書における「写」の態様」(『NEWS LETTER』8号)の二論文を著した。
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