郊祀(南郊)は、至上神たる昊天上帝を独占的に祭祀するという意味において、中国皇帝制度の理念的核心を表徴する儀礼であった。周代的氏族制社会が解体した帝政初期つまり秦・前漢の郊祀は、天との霊的交感を目的とする呪術的な方術として実施された。前漢末の王莽による改制を経、後漢の光武帝が元始4年(AD.4)の郊祀を故事として採用することにより、儒教理念を下支えとする郊祀制度が定着する。そして、東晋時代に二年一郊の制が定められ、以後南朝を通じてこの原則を実行すべく努めていた様子を確認し得る。 しかるに、唐代では郊祀の皇帝親祭は極めて特殊な場合に限定されるようになる。礼制自体が年に6度の郊祀(祭地・〓祀・明堂儀礼を含む)を定めて拡大する事態とは一見矛盾するような傾向が窺われる。もとより、このことは皇帝が親祭しない場合の有司摂事が制度的に確立した事情による。しかしむしろ、皇帝親祭の意味の明確化とそれに相即する規模の拡大と祝祭性の強調が、礼としての義務的・定期的な側面を有司摂事によって補完させることを要求したと考えるべきである。唐代の祭祀に示される理念において重要なことは、皇帝権が規範的「礼」に拘束されるのではなく、新たな礼の制定者として存在することを強調する点である。たとえば、玄宗天宝年間には唐室の遠祖老子を玄元皇帝として太清宮に祀り、道教的色彩を持つ九宮貴神祀と併せて、国家祭祀の最高レベルは南郊-九宮貴神祀-太清宮-宗廟に序列化され、南郊に当たっては、太清宮-宗廟-南郊の順祀の形式が確定した。また、国忌行香の如く仏・道二強も国家の儀式に組み入れられるが、それは唐朝国家に新たな象徴を纏わせ賦活させる意味をもった。マクロな視点に立つとき、以上の事柄は、王権が「礼」の規範性が拘束しきれないマジカルな側面を、その儒教化以後も潜在的に保有していたことを物語るのである。
|