冒険家、旅行家たちによるアジア「発見」と、長いキリスト教布教の歴史を別にすれば、フランスがアジア地域に政治・軍事・文化的「進出」を図り始めるのは、19世紀半ばである。中国においてイギリスとの覇権闘争に破れ、朝鮮半島においては鎖国政策による締め出しに会い、日本をめぐっては結果的に敗者となる幕府側を支援したため、フランスのアジア進出の鉾先は、自然、太平洋諸島と東南アジア(インドシナ)に向けられる。ちりわけ1860年代から迫害キリスト教伝道者の保護を名目として海軍勢力が投入され、1887年までにインドシナ連合として植民地支配が完遂した仏領インドシナ(現ベトナム・ラオス・カンボジア三国)は、1954年のジュネ-ヴ協定まで、約70年間にわたって名実ともにフランス文化の洗礼を受けることとなる。フランス第三共和制とは、したがってインドシナ半島をそのまま内包する実体であったわけであるが、その一見あたりまえであるが故に忘れられがちな事実を、個々の文学作品のなかのアジア表象(ピエール・ロティからマルグリット・デュラスまで)、種々の文化政策(とりわけ現地のフランス語教育)、学術調査の業績(ハノイの「フランス極東学院」に集う学者たち)のなかに再確認するという、重要な研究課題が手つかずのまま残されている。 このように、日本をあくまでアジアの一部と見た場合、自然われわれにとってフランス文化、フランス文学が持つ意味も、いわば照射的に変容を免れないのではないかとの発想が、本研究における根本的着眼点を構成している。
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