本研究は、近代都市計画以前の都市空間を、今日の緑地学的視点に照らし合わせて、体系的解釈を試みる研究成果の一部である。 造園学のうち、近代以前についての史的研究の中心課題は庭園に関するものであるが、今日の緑地の概念に照らし合わせると、並木や公に開放された園地、広場など、造園学の対象とする空間は庭園以外にも存在している。本研究においては、近代都市計画以前の都市、特に享保期の江戸に存在していた空間のうち、今日の緑地に匹敵する空間について、社会的背景の検討を通じて文化的、制度的な観点より研究を行った。 本研究の中心的な成果は、享保期の江戸における公園的空間の成立に関するものである。享保期においては今日的な意味での都市公園制度は成立していないが、この時期に一般市民に開放された公園的空間としては、護持院が原のような火除地広場や、隅田堤、御殿山、飛鳥山、中野桃園、小金井堤のような公共の園地などが整備された。本研究においては、これらが享保改革の個別政策と密接な関連があることが明らかにされた。特に、公共の園地の整備については、享保改革の柱となる地域政策である江戸周辺の御鷹場制度の再興、および武蔵野新田開発との直接的関連を示し、(1)園地の整備過程が享保改革の三つの時期区分の各時期の政策において明確に位置づけられること、(2)園地の整備が政策的に注目されている地域に政策に則したかたちでなされていること、などから、享保期の江戸における公園的空間ならびに公園的制度は、地域政策の流れの中から成立していくものとした。 今日の緑地に対応する当時の概念については管見の限りで明らかではないが、近代都市計画以前の日本における緑地の史的研究において、享保期は造園に関する技術や制度が大衆化したひとつの画期をなしていると考えられる。
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