研究概要 |
第二次大戦前における我が国の家庭電化の発展家庭を示す指標として、屋内配線とコンセントの普及過程に着目し、その変遷をスケールとすることを試みた。 我が国の電灯需要家は大正元年末に1,683,305戸までになり、都市部の富裕層から家庭電化製品が使われ始めた。明治末期から大正末期までは輸入品を中心に、その後電気扇や各種電熱器が国産化され、アイロンを例に取れば昭和12年には全国で3,131,000台、東京地区で1,200,000台が普及している。それに伴う電熱契約状況は昭和2年で82,413口となった。 これらの需要に押し上げられ、屋内配電にも変化が現れた。この当時、電力線は電灯線と言われていたが、電灯でさえ各部屋には無く、当然コンセントもなかった。電気扇の使用程度であれば、電球のソケットから直接又は分岐ソケットを使用する事により可能であるが、電熱器等を電灯線に接続するためには屋内配線の変更や電熱契約をする必要があった。 屋内配線に関する規定は、東京電燈では当初明治21年発行の「エジソン会社取付規定」や明治43年発行の「外線内線試験電量規定」を使用していたが、この中には明確な屋内配線の規定はない。それらが現れるのは東京電燈が大正13年に発行した「内線規定」からである。ここでは適正配線の概念や各部屋におけるレセプタクル(コンセント:コンセントは造語、大正末期以降使用される)数や位置などが規定されている。これ以降「内線規定」は電気使用の形態の変化に応じ度々改訂され、その変遷は家庭電化の過程をたどるスケールとして極めて有効なことがわかった。
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