本研究は、19世紀末のイギリスにおいて各地に設置された体操場や体操クラブの実態をあとづけ、イギリスにおける体操の競技化の経緯を明らかにしようとした研究である。まず、19世紀末の時代に刊行されていた体操関係情報誌(Gymnasium News.1886年9月から1888年2月、Gymnast : A Monthly Journal of Gymnastics and Athletics.1890年10月から1891年3月、The Gymnast and Athletic Review : A Monthly Journal of Sport and Pastime.1893年2月から1899年1月)の収集及びその整理に着手した。各地の体操場の設置に寄与したのは、ドイツ系体操の系譜に位置づく体操家や、当時イギリス在住のドイツ人であったことが明らかになった。 イギリススポーツとドイツ系体操とのかかわりという点では、19世紀末のイギリスでは、体操が国民的な文化であったというよりもむしろ1つのスポーツ種目となりつつあった事情が存在していた。イギリスにおいて体操競技統括団体としてのAmateur Gymnastic Associationは、1890年に設立され、1896年にAGA Championshipが創始されている。体操の競技会の開催及びその競技運営・競技採点方式は、この時期に確立されたとみられる。同年、AGAは、フェンシングを包含してAmateur Gymnastic and Fencing Associationとなっている。体操を含んだ走跳投などの多種目実施のドイツ系体操の内容論をめぐる論議がイギリススポーツ事情を絡めて展開されている。また、体操場や体操クラブの設置拡充、体操教師会の設立、体操講習会の開催あるいは体操教師資格付与事業などは、ドイツの事情とも一致をみている。 しかしながら、イギリス体操史の本質的な理解のためには、イギリスへのドイツ系体操移入の事情を理解する必要が生じてきた。その点で研究の関心が1820年代後半にまで遡ることとなった。ゲームム-ツ及びクリアスの体操書の英訳の検討、フェルカ-らの体操家の体操内容論の把握もこの研究の中で試みている。
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