本研究では、デザインの基礎観念とも言える「抽象化」が近代日本のデザイン界にどのように定着してきたのか、その形成過程を検討したが、近代期全体を見渡すには研究期間的な制限があったため、まず時代的な範疇としてバウハウス受容期の1920年代から30年代の戦前期を対象に、旧東京高等工芸学校関係者への聞き取り調査を行なう中、デザイン教育の現場における抽象化作業の実際、抽象観の啓蒙の実際に関する講議や議論の様子を求めていった。一方、包括的な視野を獲得するために、明治・大正・昭和戦前期における抽象化観念の啓蒙書・指導書を収集しながら、その書誌学的分析を通し、抽象化観念の形成環境、教授過程、抽象化作業の実際を求めていった。さらには、こうした課題を、同時代におけるドイツの抽象化教育の実態と合わせ検討する必要を得たため、主に20年代、30年代の日独を対象とした比較デザイン論的視点に基づく検討を試みた。 その結果、日本近代における最も先駆的なデザイン教育機関であった東京高等工芸学校では、明治以降のデザイン教育の基調を成した「便化」手法を基軸に抽象化教育が進められる中、20年代以降にもたらされたバウハウス理論に基づく「構成」観念が徐々に浸透していったものの、主流を占めるには及んでいないことがわかった。むしろ理論系教育の中心を成した宮下孝雄の主導により、独自の幾何学的構成の手法をはじめ、独特の抽象化教育が行われたことがわかる。 これらは、同校におけるバウハウス理論の受容の態度にも反映されていることから、おしなべて当時のデザイン界全体がバウハウス理論に積極的な理解を示そうとはせずに、むしろわが国固有の抽象化観念の形成過程を踏まえた独自の教育手法を開拓していたことを教えるものであろう。 これらの問題は、明治・大正・昭和戦前期における抽象化観念の啓蒙書・指導書の実態にも反映されており、「抽象化」を観念による操作の問題としてではなく、模様や図像を描き出していく手法の問題として把握しており、自然の形態を「便化」していく手法の提示が中心となり、一種のパターンブック的性格を持つものが多く見られることがわかった。
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