本年度は、女性実験映画作家である出光真子の作品におけるフェミニスト映画としての可能性を考察するとともに、日本映画におけるマイノリティ女性の声の扱われ方という視点から大島渚監督の『日本春歌考』のテクスト分析を行った。出光作品の考察においては監督自身が依拠し、作品のタイトルにも使用されているユング精神分析における「グレートマザー」という概念の映像化とその批判的可能性を検討した。出光の作品に繰り返し登場する娘(時には息子)を支配・抑圧する母親像は、家父長の代理として父権の代行者として描かれ、家父長制への批判を試みるが、「母」を悪者として仕立てることで、その背後にある「男」つまり「父(家父長)」を不在化し放免してしまい、フェミニズムの立場からの家父長制批判と言う点では限界があったといえる。また出光の前衛手法とフェミニスト・ポリティクスの特性を明らかにするために他国の女性の映画作家(アイルランド人のCarol Moore、Vivianne Dick、ベトナム系・アメリカ人のTrinh T.Minh-ha)との比較検討も行った。 大島渚の『日本春歌考』の考察においては、劇中で在日女子学生によって歌われる『満鉄小唄』を取り上げ、「女の声」と「民族の声」の相克を検討した。映画音楽研究で援用される精神分析理論、特に「歌」「音楽」と「母性」との関係を論じる議論を参照し、やくざ映画において同曲が使われる例と比較を行った。やくざ映画においては『満鉄小唄』が失われた母(国)の象徴として男性キャラクターの民族的アイデンティティの印となり、男同士のホモソーシャルな絆の形成に奉仕するのに対し『日本春歌考』では「被抑圧民族の歌」としてだけでなく「女の歌」としての一面を強調し、女性に対する抑圧を批判する「女」の声を前面化しており、在日男性の「民族言説」の代弁者としてその身体を利用される在日女性という従来の紋切り型の表象を否定しているといえる。
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