本年度は、研究者がこれまで国内外で長年の間、行ってきた妊娠・出産に関するフィールドデータを整理しつつ、新たに「記憶」、「オーラリティ」といった視点からの分析を試みた。また、これまでモロッコで得た知見から現代の日本社会の医療が抱える問題を相対化する試みを行った。主な研究成果は以下の通りである。 日本文化人類学会が編集する『文化人類学事典』の項目「産婆」を執筆した。助産を生業として古来より地域社会の女性たちに寄り添ってきた産婆が、現在の医療施設内で医師の管理下のもとで働く助産師になるまで歴史的に振り返った。そのなかで、現在の日本の出産現場をとりまく諸問題は、助産師を最大限活用することによって改善可能であることを、オランダで高い地位を持つ助産師の実践やモロッコの免許をもたない産婆の実践の例をもとに相対化して示した。また、アジア遊学の特集にて論文「『産後うつ』のない世界-モロッコ」を執筆した。出産は人類共通の生理的現象であるにもかかわらず、なぜモロッコ農村部に「産後うつ」とみなされる概念がないのか、日本とモロッコの妊産婦を取り巻く環境の違いから分析した。 また、リプロダクションに関心のある専門家たちが多く参加する研究会において、「モロッコ農村部における人々の記憶と出産の実践」をテーマに発表した。そのなかで、出産の医療化に関連する人々の出産方法の選択をめぐって、「意思決定」「合理性」「実用性」「リスク」といった「個人」を主とする欧米の概念を無反省に使用してきた先行研究を批判した。そして、当事者にとっての「決定」の背景に関して、妊娠・出産の時期の実践だけでなく、人々の記憶、経験の積み重ねの語りに焦点をあてて分析した。
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