研究分担者 |
木庭 元晴 関西大学, 文学部, 教授 (40141949)
山岡 泰造 関西大学, 文学部, 教授 (50067576)
丹治 昭義 関西大学, 文学部, 教授 (00067555)
米田 文孝 関西大学, 文学部, 助教授 (00298837)
高橋 誠一 関西大学, 文学部, 教授 (00025082)
|
研究概要 |
平成9年度の調査では遺跡南半部西側に位置するヒンドゥー寺院丘と呼ばれる遺丘において,遺丘の性格を特定することを目的として,発掘調査を行いました。その結果,遺丘は6〜8世紀頃のヒンドゥー教寺院であり,都市が完全に衰退・廃絶した後に造営されたものであることが明らかになりました。 平成10年度にはヒンドゥー寺院丘の西側の平坦地において発掘調査を行い,ヒンドゥー寺院に先行する段階の建物遺構の検出を行いました。その結果,この区域では紀元前5世紀頃から人の居住が開始され継続的に居住活動が展開したものの,4世紀頃に居住範囲の縮小が著しくなり5世紀頃には完全に居住活動が停止している状況が明らかになりました。したがって,ヒンドゥー寺院が造営される前の段階に都市が衰退していた状況を明確にすることができました。 平成11年度にはさらに遺跡南半部での状況を確認するため,南半部東側に位置する大型遺丘の測量調査を行いました。このマウンドはその規模から王宮址である可能性を持つもので,都市構造の理解の上,きわめて重要な意義を持つものです。遺丘表面の観察から,1〜3世紀頃に造営された建物が埋蔵されている可能性が高いと考えられます。 3年間の調査によって,遺跡南半部では北半部と比較してやや新しい時期から居住が開始され,かつ北半部よりも長期にわたって,居住活動が維持されたことが明らかになりました。すなわち,遺跡北半部では紀元前6世紀には居住が開始されていたのに対し南半部では前5世紀まで遅れ,かつ北半部では3世紀頃には居住が停滞する一方,南半部では4世紀頃まで続いています。一つの都市遺跡の中で区域によって居住の存在時期が異なる状況は,都市としての消長を考える上できわめて重要な意味を持つもものと考えられます。
|