本研究は、1970年代以降寧夏回族自治区、特に南部の固原県周辺一帯において続々と発見された北方系青銅器文化の遺物の多くが、墓葬の形式や青銅器の種類と紋様の違いから、匈奴文化の範疇に入れられないことを明らかにした。従来、これらの遺物は、動物紋様を特徴とする騎馬遊牧民族のものに共通するため、これまで匈奴文化の遺物と考えられていた。しかし、内蒙古自治区での匈奴の墓葬の発掘調査と研究の進展につれて、墓葬形式と副葬品の種類を比較すると、共通要素も多くあり北方系青銅器文化の名の下に大きな枠組みで把握できるけれども、墓葬の形式や青銅器の種類と紋様に明らかな差異が認められる。このような地域的差異は、その担い手としてそれぞれの該当地域を占有していた民族の差異に由来するものと考えられろ。本研究では、その民族を史籍に言う西戎と考え、その妥当性を明確にしょうとする問題意識のもとに行なわれた。現地踏査を通して、北方系青銅器を含む青銅器文化に関して、寧夏回族自治区全体の概要を把握したことは、本研究の大きな成果である。 さらに寧夏中、南部の遺跡には甘粛仰韶文化半山類型の彩陶が出土するだけでなく、青銅器時代に属する斉家文化、寺窪文化や河西画廊の沙井文化の資料が確認できた。文献資料によれば、西周から戦国時代にかけて、この地域には義渠戎、大茘戎、鳥氏戎などに代表される西戎と呼ばれる少数民族が居住していたと伝えられている。この地域における新石器時代晩期から青銅器時代への転機が西戎などの民族にどのように関わっているかについて論及する。西戎に関する考古学的研究は中国の考古学界においても緒についたばかりである。北方系青銅器文化の研究と絡めながら寧夏南部から甘粛省東・西南部、河西回廊の地域をも視野にいれて研究を進める必要がある。
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