(一)今回の研究の主な目的は考古学の立場から二重構造モデルを検討することであった。農耕の起源、それから狩猟採集民と農耕民の相互作用に関する最近の理論研究にもとついて、モデルを作った。このモデルの主な点は:(1)狩猟採集民が自ら農耕を始まることは非常にまれ;(2)縄文時代に存在したと思われる植物の栽培はかならずしも農耕に進化しない;(3)土器型式の連続はかならず民族集団の連続を反映しない。この3点から考えると、日本列島の縄文から弥生時代の歴史は矛盾しないところが多く、考古学は基本的に二重構造モデルを支持する。日本の考古学者が今まで二重構造モデルをあまり評価しなかったというのは実際のデータよりも理論の違いが原因と思われる。 「栽培」と「農耕」の定義は日本の生業の歴史に重要な手掛かりになると思われる。最近、幾つかの縄文時代の遺跡から栽培植物が発見されるようになったが、この栽培は農耕の一歩として取り上げることが多い。しかし、比較先史学の立場から、狩猟採集民がある程度の栽培を行うのがごく普通のこと。縄文の「栽培」と弥生の「農耕」の間には大きな不連続が存在し、縄文時代後半の社会的な保守性を考えると、縄文人は農耕を拒んだ可能性があると結論した。 (二)8月に種子島の小浜遺跡の発掘に参加し、重要な人骨資料が発見された。古墳時代の3基の墓から男女と子供3体出土した。12月にこの資料の虫歯およびenamel hypoplasiaの古病理的な分析を始まったが、その調査は来年度にも続く必要はある。
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