研究概要 |
工部省は、Department of Public Worksとして、イギリスがインドに設置した工業振興と行政管理を担当する機関として設置されたものであったが、明治初中期における工業振興策は、必ずしも、工部省だけに集約されるものではなかった。この点は、当時の政治権力確立過程と工業振興のかかわりあいという枠組で、把立直す必要がある。次に、その枠組みは、天皇を中心とした,より保守的な勢力との関係,および、維新派内部の勢力争そいという二重の視点からみる必要がある. 工業振興は、結局、総合的な-すなわち、諸分野の振興をいかに調和,あるいは、どの分野をleacling sectorとして、いしかなの-戦略がたてられないまま,維新派内部の,いわば勢力拠点として分割分掌され,統一性をかくことになった.さらに、天皇革勢力との間においては、より自由主義的な政策をとったものの,新体制を支える知識階層の社会的関係としては、もっとも優秀な若者を法文系に少数のみ採用し,多数を科学や技術部門に振り向け,政治的な復業をはかる方策がたてらてたといえる.したがって、まず、工部省の基本的な性格として、単に抽象的な工業振興担当部局とか,近代化の枠組みからとらえることは、不十分であり、上記二重の側面から規定されるべきである。工部省と外国(お雇い外国人を含めて)との関係もまた、この関係からみてとれるし,工部省の政策の限要もここにあった。
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