本年度は、明治期日本の技術形式の政治的枠組を分析した。 その際とくに鉱山、鉄鉱(鉄鋼)業を主たる分析の対象としたが、工学寮・工部大学校においての鉱山治金関係の指導は、全体が薩長体制の枠組の下に、イギリスからの技術者と研究者によって行われるという体制の下で、イギリスから招かれた J.ミルンによって行われた。しかし、当該分野では、イギリスからの技術導入は有効でないことが判明し、導入先をドイツに変更することになる。 しかも、工部大学校の基本プランは、従来Dyarのプランが そのまま受入れられたとされているが、Dyarは、ヨーロッパにおける進んだ工学教育の実際は、スイス連邦工科大学としているし、そのスイスと比較すると、大きなちがいが見られる。また、Dyarが、工部大学校の学生に求めた 技術表団体の結成や論理感の育成は、結局はなされなかった。こうした点から、近代ヨーロッパ技術の日本的な受容形態が抽出される。
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