工部省の日本技術形成史における史的意義を明らかにするには、一つには工部省内部の政策展開を分析する必要があるが、その関連では分野別の重点の置き方の推移を見ることが必要である。初期には、幕末のいわゆる米国等との開港条約によって義務化された灯台建設に代表される土木は、経費やお雇い外国人数とともに最大の比重を占めている。鉄道や工学寮なども重点が開かれるが、鉱山関係は必ずしも、海外貿易で大きな役割を果たすべく期待された割には、日本の江戸期来の技術的発展の隘路を克服し、近代技術の形成が近代的な形態をとって行われたとは言い難い。日本坑法などによって明治社会が徳川体制とは産業立脚の社会的関係を大きく異なるものに展開したことは明らかであるが、そのことはまた日本における鉱山冶金技術の性格にも反映することとなった。機械製作分野は、重点がおかれたとは言い難いが、これは日本の技術移植における「伊藤博文方式」の結果であり、このことはその後の日本技術の展開に後を引くこととなった。
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