研究初年度、平成9年度においては以下の研究を行なった。 意味の全体論テ-ゼの内容を正確に確定するために、フォーダ-、ルポア著『意味の全体論』を共同で検討し、そこに盛られた全体論テ-ゼ解剖の検討を別所と柴田が共同でなった。全体論的な主張はヘーゲル的な歴史の弁証法やハイデッガ-やガダマ-の解釈学的循環理論といったドイツ的な形而上学の伝統の中で語られる問題でもあるが、フォーダ-やルポアの議論は英米の分析哲学の伝統の中で全体論の問題を「意味の全体論」の問題として提示している。このことによって「全体論」の問題が、言語の問題として分節化されることになる。人間は言語というフィルターを通して世界と結びつき、その接点において「意味」という現象が生じる、と考える。すると全体論をめぐる問題は、言語システムが全体としてのみ世界に接しているのか(全体論)、原子的な接点としての文やト-クンを基点としたシステムなのか(原子論)、あるいは両者の中間形態として分子というべき部分システムごとに世界に接続し、その分子諸システムから言語システム全体が構成されている(分子論)といった選択肢として考えることができる。フォーダ-やルポアの全体論批判は、意味の原子論を真理だと主張するものではない。この徹底的に否定的な思索のなかに将来の意味理論への可能性が秘められていると言えよう。 次いでわれわれは意味の全体論の問題を「基礎付主義」との関連で考察し、H.アルバ-トの「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」の問題を分析した。これは先に述べた意味の〈全体論〉〈分子論〉〈原子論〉の問題を、理論(すなわち言語によって構成された意味体系)の基礎付の問題へと拡張する視点である。別所の研究論文は基礎付主義の問題を「実践理性」の可能性の問題として論じたものである。
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